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ダンチェンコとチェーホフ

コンスタンチン・スタニスラフスキーとともに、モスクワ芸術座の創設者であるネミロヴィッチ・ダンチェンコ
彼は、結構すごい演劇人でした。

歴史的には、スタニスラフスキーとチェーホフの影に隠れた脇役的存在ですが、
元々ダンチェンコのほうがロシアでは有名だったのです。

モスクワ芸術座自体も、ダンチェンコの「新しい劇場を創りたい」という長年の熱い思いがあったからこそ、スタニスラフスキーと意気投合したのです。

 

ダンチェンコは、劇作家であり、非常に質の高い戯曲を書いていました。
チェーホフが「かもめ」で最初失敗した年、年間ベストワンに選ばれたのが、ダンチェンコの「人生の価値」という作品です。

相当評価の高かったダンチェンコの作品は、今ではほとんど読まれることも上演されることもありません。
逆に、「大変な愚作」とまで称された「かもめ」が世界中で上演されています。
変化というのは面白いものです。

しかし、ダンチェンコはチェーホフの素晴らしさを知っていて、「人生の価値」が受賞したとき、
本当のベストワンは「かもめ」だ、と訴えたくらいなのです。

ですから、すごく先見の明はあります。
当時の時代に合致する、観客が喜ぶ作品を書いて、絶大な地位を築きながら、来るべき新しい作品を書けるチェーホフを賞賛していたのです。

 

ちなみに、チェーホフは、「かもめ」の大失敗を目の当たりしたとき、もう絶対に戯曲は書かないと誓いました。
「700歳まで生きても書かない」と。

彼は、初日を観ています。
観客の当惑、鳴らない拍手、ピストル自殺の悲劇的な場面で爆笑される始末。
散々で、初日後のパーティーも出席せず、そのまま姿をくらまし、これまでチェーホフに戯曲を書くように勧めてきたダンチェンコらを呪ったほどでした。

二人は、かなり前から親交があったのです。
ダンチェンコは、スタニスラフスキーのことを知っていましたが、大した付き合いはなかったのです。
「新しい劇場」構想を、既存の大劇場に呼びかけた際、どうせ拒絶されると思って、スタニスラフスキーのことを思い出し、会わないかと誘ったのです。
それが、歴史的な会合に繋がったわけです。
つまり、モスクワ芸術座誕生のきっかけになったのです。

 

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