Three Sisters
At the Whitehall Theatre on 11th June 1999
 Oxford Stage Companyという劇団は、ロンドンだけでなく積極的に外国ツアーにも出て、年間4.5本の作品を上演している。今回のようにチェーホフを取り上げたり、シェイクスピアに挑んだりと、内容が濃い演出的にも難しい作品を多く手がけている。かなり志の高い劇団だということは、芝居を観てもわかる。
 劇団事情によって大金をかけられないのか、舞台装置は正直お粗末なものだった。しかし、大きな欠点はその程度で、演技・演出においてこの劇団の実力とエネルギーをいかんなく見せてくれた。
 驚いたのは、この演出家Dominic Dromgooleが、非常によくチェーホフを研究しており、そのエッセンスを十分に理解した上で演出していたことだ。チェーホフの世界がしっかりと描かれていた。というのも、登場人物一人一人に「生活」があり「ドラマ(悲劇)」があり、彼らの背景に「ロシア」という社会があったからだ。
 それに応えた俳優陣も見事といわざるを得ない。彼らの役作りは綿密で確かであり、彼らの生活は舞台上で途切れることはなかった。そして、他の人物と有機的な関係を結び、大きなチェーホフの劇世界を描いていた。そして、力強いシーン、静かなシーンともコントラストが効いていた。
 どのプロダクションにおいてもいえることだが、プログラムを読むと、創り手側がイメージやアイディアだけに頼らずしっかりと研究していることがわかる。この劇団はチェーホフ、スタニスラフスキーの文献を読み、周到に準備をしている。このような姿勢は大切である。
Copenhagen
At the Duchess Theatre on 20th August 1999
 「Copenhagen」は98年にNational Theatreで上演された後、99年劇場を変えてロングランされている。アメリカ版の同作品は、トニー賞にも輝いている。
 作者はMichael Frayn。その名の通った作家である。彼は新聞記者の経験があるだけあって、その文体は重厚である。この作品は、実話を元に原子爆弾製造に関わった科学者を描いている。舞台はEmpty Spaceで、装置は三脚の椅子のみ。登場人物は三人。会話は難しい科学用語が飛び交う。これだけでも、どれほどこの作品が緊迫感をもっているかがわかるだろう。
 この作品が評価される理由はおそらくこの緊迫感だろう。ちょうどEmpty Spaceの舞台が高い評価を受ける時代であり、この作品はその緊迫感において、このEmpty Spaceを十分に利用している。また、登場人物が三人で、ほぼ会話のみで、この歴史的に重い、原爆開発にまつわる科学者の苦悩を描いている。玄人をうならせる要素がここにある。金をかけ、役者を大勢だし、きらびやかなショー的演劇が注目を浴びる今日、そんなものはなくてもここまで人を揺さぶる作品を創ることができるのだ
といわんばかりである。
 この作品には、忘れがちな「演劇性」がつまっているといえるだろう。しかし、重大な問題があることを指摘せざるを得ない。それは、あまりに会話中心すぎるために、ラジオドラマでもいいのではないか
という疑問である。そのため、自分はこの作品をあまり高く評価することができなかった。
 余談だが、この作品で唯一イギリスにおいて、俳優が台詞を忘れるという失敗をみることができた。
逆に言うと、それだけイギリスの俳優は台詞のミスを冒さないし、冒しても自然に切り抜けているということがいえる。
Art
At the Wyndham's Theatre on 20th April 1999
 日本で噂を聞いて、ずっと見たかった作品である。コメディーとはいえ、トニー賞をはじめ数々の賞に
輝いた作品だから、内容の濃いドラマだと思っていた。ところが、全くのコメディーだった。日本人の感
覚からいって、賞を取るような世間で評されるいい作品というのは、テーマを軸に中身のよさであるのだが、イギリスやアメリカではとんでもなく馬鹿馬鹿しい作品も、観客を抱腹絶倒させてしまえば賞を取ってしまう。というのも、やはりオリヴィエ賞の選考方法のように、観客が主体となっているからだ。日本は、一般観客はおろか、専門家ですらもその目が怪しいのだが……。
 白い壁に白い椅子、白いテーブル。舞台はいたって簡素である。そして、登場人物はたったの三人。
しかし、全く飽きることなく笑っていられた。キャスティングはいうことなく成功しているし、演技もよい。
彼らは言葉で笑わせるのではなく、表情で笑わせることが出来ていた。良質の喜劇は、言葉ではなく状況で笑わせるのだが、「Art」はまさにそのような作品である。
 更に素晴らしい点は、喜劇的な状況設定の中、しっかりと人間を描いているという点だ。友情とはなんだろうと考えさせる要素もあり、笑わせると同時によくできたドラマでもある。ドラマといっても、描き方はさらりとしており、テーマが主体となっていない。劇作家として、勉強になった。
 一時間半という短めの作品ではあるが、観客は存分に楽しんでいたようだ。
 
Summerfolk
At the National Olivier Theatre on 29th September 1999
 このプロダクションは心に残っている。非常に素晴らしい作品であった。というか、Trevor Nunn
の突出した実力に脱帽であった。2000〜2001年のシーズン、トレヴァー・ナンはNTで「The Cherry Orchard」を上演する。有名なチェーホフの「桜の園」だが、このゴーリキーの作品「Summerfolk」はあまりにもチェーホフ的、しかも「桜の園」的作品である。登場人物の多彩な職業と倦怠したロシア、その中で見つけようとする活力と未来。ゴーリキーはかなりいい作品に仕上げているが、一つ欠点を挙げるとすれば事件やドラマ的な変化がない。三時間、人々は暗くて悩み通し。こんな芝居をやったら、普通は客は来なくなる。来ても寝る。ところが、NTのメンバーで、しかも演出がトレヴァー・ナンになると、超一級のプロダクションとなってしまう。
 俳優は素晴らしい。一人一人の生活が見える。オーバーテクストだけではなく、緻密にサブテクストを開拓している。だから、台詞を喋っていないときの俳優の演技は非常に見応えがあった。しかも、俳優個人個人のみならず、アンサンブルとして成功している。これが、トレヴァー・ナンの凄いところだ。付け加えていえば、主演女優のJennifer Ehleは、オリヴィエ賞にノミネートされたが残念ながら「Comic Potential」のJannie Deeに持って行かれた。ぼくは、どちらかが獲るだろうと思っていた。それほど二人の演技は印象的だった。
 舞台装置がまた非常に素晴らしく、特に照明は木陰のシルエットが効果的で、美しかった。一面の芝生と何本も伸びる白樺のような木々、それらの醸し出す雰囲気は魅力的であった。光と影が実に効果的に使われていた。
 今シーズン五本の指に入るプロダクションであった。日本では、100年待ってもこれほどのものを観られないだろう。
 
Hamlet
At the Young Vic Theatre on 13th May 1999
 批評家や知り合いの間では評判が高かった、この「ハムレット」。日本での公演もロンドン公演のあ
と行った。しかし、期待していたほどのものではなかった。演出家はアイディアの豊富な人だが、その善し悪しを決めるセンスの方は疑わざるを得ない。
 ハムレットの父親の亡霊だが、これがひどい。高い下駄のようなものを履き、剣道着によく似た白い甲冑をつけている。そして、合気道のような呼吸使いをする。日本からヒントを得たのはすぐにわかるが、まったくもって西洋人はわかっていない。最悪だ。ほかにも、オフィーリアの葬儀が中心となる劇の後半では、中国の皇帝などの墓に供えられた兵士像を真似た像を並べていたが、特にこれといった効果があったわけではない。アジアのものを取り入れて、演出家は斬新な演出をしたつもりだろうが、よく知らないで実行するとこのように醜い結果となる。演出家は面白いアイディアが浮かんでも、それが有効かどうか、センスがあるかどうかをよく考えないといけない。
 しかし、舞台装置はユニークで、基本は「Empty Space」なのだが、効果的に変形し、場面を作っていた。二方向からお互いに観客が見合う長方形のActing Area。どうも向こう側の観客の顔が見えるので、ハムレットの世界に没頭できなかった。
 また、空調がおかしい劇場らしく、この日、上演中に向かい側の人がゲロを吐いた。そのために、芝居が途中で止められるというハプニングがあった。おかげで終電ギリギリであった。
The Birthday Party
At the Piccadilly Theatre on 21st Apr 1999
 ハロルド・ピンターの作品。初演は1958年、それからしばしば上演されているわけだが、この作品の
魅力とはいったい何なんだろうか。はっきりいって、ピンターのよさがわからなかったから、イギリス人が
どのような反応をするのかとても興味があった。
 意外であったのは、観客の笑いが随分とあったこと。脚本を読んだだけでは、笑いが起こるとは想像
できないだろうが、ピンターをはじめベケットなどの不条理系の作品は、笑いを引き起こす力を持っている。それはコメディーの笑いとはちょっと違う。「自然な」笑いというよりも「引き起こされた」笑いのような気がする。
 俳優の演技は、リアルな感情が入っておらず、機械的な会話の受け答えであった。芝居を観たときは、「もっと感情を入れて、リアリティーを感じさせて欲しかった」と思ったが、あとあとピンターを知ると、それがピンターの作品が望むことであるとわかってくる。現実をガラス窓越しに見る「リアリティー」を必要としない、一見ガラスのようで歪んでいて、よく見ると中の人たちはちょっとおかしいというような時空間の違いが笑いにつながっているのだと思う。
 けど、日本人にはちょっとピンターは適していないだろう。実際、ほとんど上演されないし。
Troilus and Cressida
At the NT Olivier Theatre on 30th Apr 1999
 トレヴァー・ナン演出と初めて出会った作品。シェイクスピアの「トロイラスとクレシダ」。始まって5秒で
「これがトレヴァー・ナン!」と鳥肌がたつ思いだった。それくらい鮮やかなセンスのある幕開きであった。
 「トロイラスとクレシダ」は問題が多い作品だ。登場人物が多い上に、タイトルロールのトロイラスとクレシダが影の薄い存在であるからだ。ナンは、この作品の抱える多くの厄介な点をクリアしていた。
 兵士たちの戦いの場面では、舞台後方の開閉する壁(扉)や、客席通路を使い、人物の出入りをスムーズにし、効果的な照明で場面転換を操っていた。舞台装置はシンプルだが、照明とマッチして、魅力的な劇空間を作っていた。
 多くの登場人物は、演出と俳優の力だろう。おのおの個性を持っていたために、中心人物がいないただ多いだけの登場人物を逆に魅力的な個性集団に仕立て上げていた。
 トレヴァー・ナンの力を存分に見た、という感想だ。認めるのは悔しいことだが、世界一の演劇王国イギリスの、その中のトップの実力というのは、飛び抜けている。日本とはあまりにレベルが違いすぎる。
Sleep with Me
At the NT Cottesloe Theatre on 15th May 1999
 Hanif Kureishiの新作。二十代三十代、八人の男女の恋愛模様を舞台にしたもの。チェーホフ的な
よさがあり、自由でキャラクターの生活がある。その中でも、最も個性的で役の生活を作れていたのは、RADA出身のJonathan Hydeだった。演出のAnthony Pageは、ベテランらしく人間をリアルで近接的に描かせていたと思う。
 チェーホフ的であったマイナス面といえば、全体的に平べったく、あまり事件がなかっことだ。少々退屈した。
 装置はコテスロー劇場の長方形のブラックボックス空間を箱庭のように家と庭をしっかり造り込んでいた。床もタイル敷きで、非常に精巧に出来ていた。
Plenty
At the Albery Theatre on 22nd May 1999
 The Almeida Theatre Companyによる、デビッド・ヘアーの作品。ヘアーの作品群の中でも特に
有名な作品の一つだ。が、観たときはそんなこと知らず、ヘアーに関しても名前を聞いたことがある程度であったと思う。アルメイダにしても、今でこそ「有名なアルメイダ」という意識があるが、このときはなかった。
 ヘアーは歴史的な題材、社会的な題材を好む劇作家で長く現役として作品を提供し続けている。この「Plenty」という作品は、第二次世界大戦から戦後までを描いている。社会という大きな逃れられない存在があって、その中で行き来し、振り回され、力一杯生きる人間の生き様を描いている、といえるだろうか。社会と人の相互関係をしっかりと捉えている作家だ。
 演出家はAlmeidaのJonathan Kent、主演は映画でも人気のCate Blanchett。ケイト・ブランシェットはとても魅力的で、しっかりと実力も備えている。演技に迫力があり、観客の心を捉えていた。
 場面転換がめまぐるしい芝居だが、装置家はその要求に頭が下がるくらい応えている。というのは、めまぐるしい場面転換にも関わらずしっかりとリアリスティックな装置を作っているからだ。あるときはフラット、あるときは金持ちの部屋、あるときは橋(城壁?)、あるときは美術館といった具合に、圧巻なほどの多さだった。ただ、場面が多く装置も大きいと、幕間が長く、その隙間を音響に頼るのだが、これがよくなかった。フィットしない。見事に集中力が切れる。