第11回 「サイモン・マクバーニー」

既成概念を覆す表現手段

 Simon McBurney(サイモン・マクバーニー)は、前衛的で現在HOTな演出家ながら日本でもある程度知名度がある。というのも、何度か日本に旅公演に来ているのだ。「The Street of Crocodiles(ストリート・オブ・クロコダイル)」や「The Three Lives of Lucie Cabrol(ルーシー・キャブロルの三つの人生)」、そして2003年、2004年と、日本人俳優と共に創り上げた「Elephant Vanishes(エレファント・バニッシュ)」がそうだ。

  彼が芸術監督を務めるTheatre de Complicite(テアトル・ド・コンプリシテ)は、1983年に創られた。世界中から集まったパフォーマーと共に、強力なアンサンブルで、他に類を見ない作品創りを続け、41カ国180以上の都市をツアーで回り、25以上の賞を受賞した。

  様々な国の様々な俳優・パフォーマーと共に創り上げてきたコンプリシテにとって、日本人とのコラボレーションという発想は特に奇抜ではない。正直、コンプリシテに出演する俳優はみんながみんな優れた実力を持っているというわけではなく、ある面技術が不足している。しかし、それを補う新鮮なものをアンサンブルで創り上げている。「エレファント・バニッシュ」においても、マクバーニーの一人勝ちという印象を受けるが、俳優はちゃんと適応しており、コンプリシテの舞台を観たという感じがした。

  コンプリシテが常に根幹に持っているものは、異なる媒体やイメージ、音楽、アクションを使って、既成概念を覆すような驚きの舞台を創り上げるということだ。「エレファント・バニッシュ」においても、「舞台」という「生」に、「見る角度を変えたり、クローズアップしたり、記録できる」「映像」という手段を加え、巧みに芸術的に幻惑的に演出した。芸術的というのは、ただ使用しただけでなく、絶妙なタイミングで、また様々な方法で効果的に使用していたからだ。

  近年は身体表現による表現手段の可能性から、映像など他の媒体を使った表現手段の可能性に目がいっているようだ。これを「目新しいもの好き」や「映像を使った表現ならもう先駆者がいる」などと評してはいけない。目新しいものをやりたがる日本人は、そういう浅い見方をしてしまう。コンプリシテがやるから、他にないものが出来上がるのであり、マクバーニーは単なるイノベーターではなく芸術家であるのだ。

  先ほど「驚きの舞台を創り上げる」と書いたが、驚きでいえば、「Mnemonic(ニモーニック)」をロンドンで観たときは衝撃だった。それまでテアトル・ド・コンプリシテという名前は聞いたことがあったが、観るのは初めて。当日券を買って入ると、席に目隠しと葉っぱが入った袋がある。そして、舞台が始まり、マクバーニーが登場。マクバーニーはマイクを使って、「記憶」に関する話を始める。途中で、我々は目隠しをし、マクバーニーの語りにそって、葉っぱをイメージする。葉脈のように、先祖から現代へと続いている系図……。と、我々が目隠しをとったら、マクバーニーの姿がない。すると、どこからか携帯の音が鳴る。「こんな時に……」とざわつく観客。携帯を取って急いで劇場から出ようとする男。しかし、その男は実はマクバーニー本人で、確かにマクバーニーがマイクで喋っていたはずだが、途中でテープの音に変わり、我々が目隠ししている間に観客の一人になりすましていたのだ。実にトリッキーだ。この「驚き」に包まれて、我々は「Mnemonic」の世界に引き込まれる……。

  「驚き」でいえば、「エレファント・バニッシュ」で、宙吊りの人間が出てくるが、これを「なんでわざわざあんなことするんだろう。いや、驚きは驚きだけど……意味があるの?」と思う人がいるかもしれないが、別に宙吊りは驚きという驚きじゃない。そこに意味があるのではなく、吊られることによって、普段舞台では絶対あり得ない視点からその役者を見られるという点で驚きがある。普通、俳優の足の裏が見えたり、全方向から見えはしない。透明人間になって劇場に上がっても無理だ。

 サイモン・マクバーニーが、「発想の天才」だとしか思っていない人は、彼の本当のすごさがわかっていない。

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