第10回 「イプセン」

力強い人間像

 ヘンリク・イプセン(Henrik Ibsen)は、1828年ノルウェーで生まれた。「知っている作品は?」と人に尋ねれば、まず「人形の家」という答えが返ってくるだろうか。この「人形の家」(1879)、それから次に来る「幽霊」(1881)をきっかけに、イプセンは世界の中で物議を醸す注目を浴びる存在になる。近代リアリズム、社会劇の先駆になるわけだ。それから、「野鴨」(1884)、「ロスメルスホルム」(1886)、「海の夫人」(1888)になるにつれ、イプセンの関心は社会的なものから空想的なものへ、自然主義的から象徴主義的へ、問題提起から心理描写へと移り変わっていく。

  「人形の家」には、実は別バージョンがある。ドイツの上演の際に、どうしても結末を変えてほしいと頼まれ、イプセンは圧力に負け、しぶしぶノラが家を出ない別バージョンを書いた。それを英語版で読んでみた。ノラを引き留めたのは「子供」である。自分の身勝手のために、子供は母親をなくしてしまう。安らかに眠っているのに、起きたら母親を失っていることに気づく。これがノラを引き留めさせる。まぁ、現代に置き換えてもありうる結末であるが、せっかく「まるで人形のようだった」と目が覚めたのにノラは自立を成し遂げることができない。やはり、出ていくのが一番もっともで、スカッとした結末だ。個人的には、ノラが出ていって、また帰ってくるというその後はありうると思う。ヘルメルだって、目覚めたのだから、お互いが変わって真の結婚生活に変わる「奇蹟」があってもいい。人は過ちを犯して成長するものだし、8年間も結婚生活を共にし子供もいるのだから。ただ、一度は二人とも孤独になったほうがいいと思うが。

  また「人形の家」で、昔面白いビデオを観た。イギリスのBBCかなんかの企画だったと思うけれど、最後のシーンを、三通りほどの時代に分けて、同じ俳優が演じるというもの。19世紀、20世紀(のいつぐらいかは忘れた)、現代と、屋敷内も服装も言葉遣いも変えて演じる。そうすると、どのパターンもはまる。どの時代も成立するのだ。やはりこれが普遍性なのだなと思った。更に面白いことに、ノラの態度が時代によって全く異なること。やはり古い時代ほど、慎ましく、女性下位の立場にある。現代のノラは強い。恐い。感情が素直に外に現れる。実に面白いと感じた。演じた俳優も、その違いを興味深く感じていたようだ。

  しかし、社会的・道義的なテーマよりも、個人の自由や、自己の確立という、人間的なテーマのほうがイプセンの作品の魅力といっていいだろう。やはり人間の力強い意志や感情は、ドラマの強力な軸になる。だから、イプセン作品を演出するには、役者の力量が求められる。浅い人間味、表面的な表現、弱い感情では、作品の軸を虚弱にしてしまう。ヘッダ・ガブラーは、イプセン作品の中でも特に魅力を感じる。「悪魔的」とまで表現されたヘッダに並々ならぬパワーを感じる。ヘッダの迫力と存在感に欠ければ、この作品は失敗だ。

  それから、上演したら高い確率で失敗しそうだが、魅力を感じるのは、イプセンの初期の劇詩だ。「ブランド」(1866)、「ペール・ギュント」(1867)にみる、ファンタジックな要素も無視できない。日本のイプセン研究の第一人者毛利三彌氏は「ペール・ギュント」を最高作品とみなしているそうだ。

  イギリスで、しばしばイプセンの作品は上演されているのだが、いまだに観たことがない。つい最近では「海の夫人」「ブランド」「ペール・ギュント」が上演されていて、好評そうだった。優れた演出家と優れた俳優が創るイプセン劇を観てみたいものだ。

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