今回、取り上げるのはロシアの劇作家、アントン・チェーホフ(1860〜1904)です。
1898年、コンスタンチン・スタニスラフスキーとネミロヴィチ・ダンチェンコによって、モスクワ芸術座が創設されます。その記念すべき最初のレパートリー作品のうちのひとつがチェーホフの「かもめ」でした。
チェーホフにとっては、この「かもめ」で過去に苦い経験をしていました。1896年、この「かもめ」は失敗に終わり、チェーホフ自身も深く傷ついていたのです。非常にセンシティブな性格の彼は、ダンチェンコに説き伏せられても、やはり結果に怯えていたことでしょう。これは、モスクワ芸術座のメンバー全員もそうだったはずです。
しかし、結果は不安とは異なり、カーテンコールで役者たちが呆然としてお辞儀をするのを忘れたくらいの大喝采でした。現在100年の歴史を越えたモスクワ芸術座のエンブレムには、そのときの成功以来「かもめ」が描かれています。
スタニスラフスキーにしてもチェーホフにしても、それまでのオーバーアクションな演技や表面的な人物描写には嫌気がさしていて、新しい演劇を模索していました。チェーホフの作品は、人々の生活をそのままに、巧みな描写で、人物の糸を紡ぎあわせ劇世界を構築しています。登場人物は劇中、それぞれに、自らの生活をしているのです。そんなリアルで微細に描かれた作品が、スタニスラフスキーの手によって舞台上で光彩を放つようになったのです。
チェーホフの作品は、小説や短編戯曲もありますが、初めて成功を収めた「イアーノフ」(1887年)、モスクワ芸術座誕生以降の「かもめ」(1896年)、「ワーニャ伯父さん」(1896年)、「三人姉妹」(1901年)、そして「桜の園」(1904年)が有名です。
病気のために、執筆はどんどん困難になっていました。かつて四幕の「イアーノフ」をわずか10日で書き上げたチェーホフも、「桜の園」のときには1日4ラインほどしか書けなかったといいます。
難産で生まれた最後の作品「桜の園」は、チェーホフの誕生日に初演されます。祝宴は同時に彼の25年間の執筆も記念し、劇団員によって暖かく祝われました。しかし、チェーホフ自身の病は末期を迎えており、まもなく療養先でその生涯を終えます。
「桜の園」は、多くの誤解を生んだ作品でもあります。チェーホフは、「これはドラマではなく喜劇、いや一部は笑劇だといってもいい」と言ったほど「喜劇」だということを主張しました。しかし、彼の作品の一番の理解者であるスタニスラフスキーでさえも、「これは、ロシアの人々を描いた素晴らしいドラマである」と、その「ドラマ」の面を強調しました。そして、その後、ロシア以外での上演でも、シリアスな「ドラマ」として扱われてきました。
これは、両面とも正しいのです。「桜の園」は、「金穴だとわかっているのに、乞食にも大金を与えてしまうラネーフスカヤ」「桜の園が売りに出されているのに、現実的な解決策を打ち出さずビリヤードに没頭するガーエフ」など、彼らの矛盾した生き様は客観的に見れば非常に滑稽ですが、観客は同情を感じざるを得ません。また、「さんざん解決策を提案しても、相手にされないロパーヒン」や「誰もまともに聞いていないのに、熱弁をふるうトロフィーモフ」など、人物の性格もユニークで面白く、愛らしいのです。そして、桜の園の行方や、ロシア社会の背景など、ドラマの要素も多分に秘めているのです。
「桜の園」は、今でも非常によく上演される作品のうちの一つです。シェイクスピアの作品のように、作者の手を離れても、なお生命をもち、時代を越えて親しまれています。